ボランティアガイド研修資料
2016/07/20
ボランティアガイド交流スキルアップ研修
秋田県鹿角市 大湯ストーンサークル館 2021.11.13
一般社団法人増田町観光協会会長 千田孝八
1) ガイドの役割について
文化財ガイドに軸足を置くのか、観光ガイドとしての立場に重点を置くのかによりガイド内容は微妙に違ってきます。ここでは観光ガイドの立場での役割について考察してみたいと思います。
観光ボランティアガイドとはポイントとして
『自発性』 『継続性』 『個人性』 『仲間同士の良好な人間関係』
観光ガイド社の社員ではないので、本職ガイドと棲み分けが必要な場合もあります。
ボランティアガイドの質の保証は行政のバックアップによることとなります。
『認定』 『認証』 『安心』
行政との関係では観光行政の一環一翼を担っている自負がある反面、トラブルなどがある場合「してやっている。」というようなマイナス面も出てくることもあります
ボランティア=無料? 無償?ということではなく、ガイドシステムを整備する必要な時代になってきていると思います。
『正当な対価』 『組織統率』 『常に学習』
誰のための何のためのガイドなのかを考えてみましょう。
ガイドとして軸足をどこに置くのか、何を伝えるのか、単なる知識の押し付けではない方法を考えて話をしてみましょう。お客様に耳を傾けてもらえる話し方を考え、方言などもうまく織り交ぜて話すのも面白いと思います。来訪されたお客様の興味や関心のありかを見抜く訓練も必要でしょう。
2) ガイドの際、心がけていること
事前にお客様をリサーチしておき、ガイドを始めたらお客様のことを根掘り葉掘り聞かないようにしています。話を聞いてもらえるような話し方と話題に気を付けています。いろいろ話していてもお客様同士で雑談をされてしまってはガイドしている意味はなくなります。人に物事を教えるような話術になっていないか気を付け、知識を振り回すのではガイドにならないと思っています。古いものをただ古く表現するのではなく、時間と空間を巡るストーリーとロマンを感じていただけるような表現ができたらいいなと考えています。
「また、行ってみよう。」「また、あの人に会って話をしたい。」「あの景色をまた見たい。」と来訪された方が思っていただけるようなガイドができたら最高ですよね。
3) ガイドに求められること
・来訪されたお客様との礼儀ある距離感が必要です。
・来訪された方が政治家や役所関係者か、文化財などの専門家か、メディア関係者か、小学生中学生高校生かなど、また来訪地域や年代層などにより話題のアプローチの仕方は失礼がないように工夫する必要があると思います。
・歴史の説明ではなく、昔の話を興味をもって聞いてもらう方法として現代との対比を
どう表現するのか工夫が必要です。
・正確さは勿論ですがガイド説明でお客様に興味をもってもらう方法は次の通りです。
① 地元愛
② 自己愛
③ 信じること
④ 調べること
⑤ 考えること
⑥ 遊びの精神
⑦ 方言を織り交ぜること
⑧ 自分が他地域を観光したとき何を期待し要望していたのか思い出すこと
⑨ 学芸員ではないので軸足を観光視点に置くよう心掛けること
・ガイドとしてのプラスαは個人個人の個性をプラスした、自分なりのガイド方法を
見つけ身に着けることではないかと思います。
※私には、世界遺産というハードルの高さはどれほどのものか実感はありません。
つまり、世界遺産保存と観光のギャップは存在します。立ち入ることができないところ
や触れることができないものがありながら、興味や魅力を感じて戴くにはどのように
したらよいのか、考え企画する必要があります。これは現場を任されるガイドと企画
管理をする役所との協力した知恵の出し方になると思います。
特に今回は行政区域を飛び越えて他地域との連携をどうとっていくのかが生命線となる
かもしれません。文化財活用の観光広域連携の取り方は過去に例がないと思います。
ただ、あくまでも観光ガイドは接客業務の一助しかできませんので、観光誘客や観光
集客業務はガイドの仕事には入りません。関係連携がうまく取れベースができることで
ガイドは充実した仕事をこなすことができ、皆様のお役に立てるものと思われます。
4) 国重要伝統的建造物群保存地区への取り組みについて
平成25年に国重要伝統的建造物群保存地区選定となった増田ですが、実は平成17年の市町村合併以前から増田町商工会を中心に新規進出した稲川町の稲庭うどん店佐藤養助商店増田店がきっかけで「ますだクラッシックロード」という事業を始めました。中心街区の活性化を新規進出店舗を盛り立てながら、それまで広く一般に知られていなかった「増田の内蔵」を活用できないかということで始まりました。市町村合併を経て後、内蔵所有者のご協力もあり「増田蔵の日」というイベントを10年ほど続けてきました。
秋田県内では40年以上前の初期から指定になっていた「角館」はみちのくの小京都として全国的観光地の一つになっておりました。横手市では旧横手市内での重伝建指定も模索したようですが、実を結ばず増田町に白羽の矢が向けられ今日に至っております。
中心街区の一部の建物は重伝建指定以前にJR様などの助成で補修修景されたものもあります。現在は主要建造物の修理修景工事はかなり進んでおりますが、補助金のみでできるものではなく自己負担金も補助同額以上かかることから、少し停滞気味です。何しろ冬場の積雪が2mほどとなるため木造建築物の維持管理は各所有者にとって大きな負担となっております。
増田町の中町・七日町・本町・上町には約50軒ほどの古いお宅が軒を連ねており、その中の19軒が公開家屋としてご案内しております。ただ、増田町の古いお宅で旧来からそこに300年から400年暮らしていますというお宅は2割程度しかおりません。ここ数十年の間に建物は古いまま所有者が変わり別のご商売をされているところが8割です。
増田が国重要伝統的建造物群保存地区選定になった要件は町割りが江戸時代から変わっていないところです。つまり、昔から区画整理されていないわけです。家の中に内蔵があることは指定要件に入っていません。
そこが、私たち増田の観光を考えるときに文化財指定イコール観光ではないと横手市に訴えた重要な部分です。どうしても今の行政はインフラにつぎ込んだ資金の費用対効果を要求するとき来場者数のチェックをしたり、アンケート調査をしたがります。これは何の関連性のないことを無理やり結び付けているからです。文化財の保護や文化施設は設置や維持管理にどうしても費用が掛かります。しかし、観光は一つの手段であり結果ではありません。観光を通じ飲食店やお土産屋さん、宿泊施設、さらに新産業や製造業がご商売につながっていくことへの間接的お手伝いにすぎないはずです。
現在一般社団法人である増田町観光協会では少ない予算で高効果を得ようと工夫しながら、誘客・集客・接客対策を講じています。モデルはミスりんごコンテスト応募者の方々に協力してもらい、写真撮影編集や動画撮影編集は勿論、パンフレットやポスターの企画編集も自前で行い経費節減としております。
増田のことを90歳を超えた長老と相談の上記録したことを次ページから記載しておきます。これは後にパンフレット細見読本に掲載した「増田のこと見たり聞いたり」です。
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【増田町のこと見たり聞いたり】
調 査 記 述 責 任 者:
一般社団法人増田町観光協会会長 千田孝八
最近増田を訪れる方々から「なぜこんな田舎にこのような町ができたのでしょう」と問われることが良くあります。実は増田町史にも増田郷土史にも増田町の中心街区のことはあまり表現された文献はありません。私たちが明治生まれの年寄りたちから聞かされたこと、また私たちが見てきたもの、調べたものなどを思いつくキーワードごとに述べてみたいと思います。
当時の増田の繁栄した時代は、基本的に古代中世史まで遡るものではなく、明治大正昭和の近代史です。
まず増田の人たちの気質の一面が記載された、次の『』の中の引用文書は(大正3年6月1日実業の増田第20号)を一部抜粋編集したものです。増田人の質実剛健な暮らしや地域創り、その生活の仕方、姿勢が端的に表現された短文と言えます。
『増田の人は主人と雇用人との間、一見見分けがつかないことがあり、初対面の人が主人を捉えて主人への取次を頼むことが往々にしてあった。これは古来増田の人の服装が、上下を通じて筒袖(つつそで)・股引(ももひき)を纏(まと)い、雇用人と共に労働するのが普通であったからである。これは成瀬・皆瀬両流域(俗に増田山内と呼ばれていた)の農民や樵夫(きこり)と仲間として付き合い、久しい間にこれに同化してしまった、とも云われているが、要するに商人達と雖も(いえども)ひたすら質素に節倹を旨として生活してきたことに拠る。またその住居は、表向きは粗末な茅屋で、従って家並みは商人町と云われ乍ら、そう立派でもなければ壮大でもない。しかし家の中に入れば内蔵が鎮座し、さらに裏に廻れば漆喰塗りの立派な土蔵が建ち並び、その意外さに世人は「増田の蛍町」と称した。尻が光ると云う意である。この美風は、増田の社会の貧富の差を甚だしくせず、商人の数が当時雄勝全郡の数に匹敵しながら特に卓出せる地主などは存在しなかった。又、町内全域においても下層の者でも生計難を訴えることがなく、その多くが中産以下の相応の生計をしていたことにも現れている。』
増田人の特色としてこの新聞記事『増田人の風俗の特色』は、増田人の気質を端的に描写しています。商人の日常の生活は少なくとも明治の末ごろまではこのような状態であったと思われます。しかし、煙草の国営化、生糸の暴落による作離れなど、この地特有の産業も衰退に向かい、時代の変遷とともにこの美風も次第に色褪せ、一般の商人の態に変わってくるのです。
また、貧富の差が甚だしくなく、下層の者の生活も相応の生計であったとするのは、当時極貧の生計に喘いでいた者の少なくなかった農山村の実態からすれば、増田はまだまだ恵まれた方であったことを述べていることのようです。
地理:東北の秋田県南部の西栗駒山麓に位置し、成瀬川が皆瀬川に合流するところが増田
です。旧街道では小安街道と手倉街道の交わるとこですが宿場町としてではなく、物流の拠点として発展し商人の町が形成されたのが増田町です。
地形:増田町は標高100m前後であり、横手盆地南端東側に位置します。
真人山から広がる扇状地は肥沃で水はけが良いため、安定した地盤とおいしい地下水により縄文時代から人が住み着いていたようです。現在その痕跡を垣間見ることができるのは吉野地区の『梨の木塚遺跡』に竪穴式住居が再現されています
気象:夏は盆地独特のフェーン現象により非常に暑く、冬は2mほどの大変多い積雪があります。雪は増田に10件以上存在した魚屋が雪室に運んで行き、9月ころまで氷の代わりに使用していたそうです。自然のものを活用したという点で、今で言う「エコ社会」のひとつです。
土地:農地として好適地の横手盆地は陸地盆地としては日本一の広さを誇ります。
昔から米作中心の地域ですが、増田が栄えたころは特殊農産物といえる葉タバコや養蚕がこの流域では行われていました。その仲買人は増田の商人です。今は傾斜地を活用した果樹栽培が増田町亀田から北は平鹿町醍醐や横手市大屋、南は稲川町大倉のあたりまで広がっています。りんごの無袋栽培はこの地区から始まり現在は全国的になっています。樹上で完熟させるために大変糖度の高いりんごが作られています。
政治:一国一城令により廃城となった土肥城跡は現在、増田小学校となっています。
「増田」が国史に初めて現れたのは天平宝字(てんぴょうほうじ)3年(759)9月で、ここに出羽の郡衛(ぐんが)が置かれたと記載されています。この平鹿郡名の発祥地は増田町の小字名「平鹿」で、この地名の由来は成瀬川の河成段丘線崖にあったといわれています。平成17年に市町村合併しましたが、増田町は平鹿郡の筆頭町村でした。増田町本町を中心に役場、警察署、消防署、法務局、郵便局、営林署、更に県内一の葉たばこ耕作面積を管理する専売公社などの諸官庁の所在することによって、周辺地域の中心でした。
教育:増田小学校は秋田県内で秋田市明徳小学校の次に出来ています。現在の増田高校は大正の増田町立実科高等女学校を前身としています。また、旧西成瀬小学校では標準語教育を先駆けて行っていたことでも知られています。「文教の町増田」と言われた時代があるように教育熱心な地域でした。古くから東京の大学や学校に子弟を学ばせることもしていたようです。東京大学出や東北大学出のお医者さんやちょっとモダンな慶応や早稲田出身のお店のご主人がおりました。剣道関係者は山形県の米沢の学校だったり、商人の子弟の中には秋田商業古老のOBもおられました。秋田師範学校(現秋田大学)を卒業し、増田は教育関係の仕事に従事されていた方が多かったこともその成果かもしれません。また変わったところでは、北海道札幌市月寒にある財団法人月寒学院・学校法人八紘学院設立には増田の千田彦五郎と佐藤清十郎が私財をつぎ込み農業後継者育成の学校を作りました。もちろん今現在も存在する学校なのです。その理事長は稲川町出身の栗林氏でした。
文化:増田は産業や文化の面で北前舟の影響を受けた最も内陸のひとつです。内蔵の意匠などに関西風というか、上方の影響を受けたものが多く存在します。また、財力と人脈によりそれぞれの分野の専門家を招聘し、その当時日本の作庭家の第一人者の一人である長岡安平設計による真人公園は春の桜を観、秋には紅葉を楽しみ、その真人山を借景にした庭を造るなどして客人をもてなしていたといわれています。絵画、写真はもちろん、俳句や短歌、謡、能などを嗜む方多くおられたとのことです。
北前舟の影響を受けた産業面では、昆布加工を行う昆布店が今も増田に存在しています。
産業:現在の北都銀行の前身羽後銀行は増田が本店、さらにその前身たる増田銀行が明治28年(1895)5月3日「株式合社増田銀行」として全国的にも早い段階で増田の商人達により創設されました。それぞれの商人達による金貸業を貸すほうも借りるほうも「見える化」したことにより、さらに地域の経済活動に拍車がかかったと思われます。増田水力電気会社が真人発電所によって県南でいちばん早くこの町に電灯をともしたのです。その後、南は山形県境から北は阿仁町の辺りまで電気を供給する電気会社に拡大しました。増田町の中心街区の中町・七日町・本町には50軒ほどの商人がいましたが、お店の商売以外の収入も多かったものと考えられます。鉱山、山林経営、稲作、葉タバコ、養蚕、金融、証券、不動産と、増田が他地域と異なる発展を遂げることができたのは、そこに住む商人同士がライバルでありパートナーであったものと思われます。1軒の家だけが繁栄するのではなく、異業種交流や共同協業、法人経営とマルチタスクに行われ、文字どおり産業・経済・文化の中心地であったと考えられます。質素倹約を実践しながら暮らしてきた増田の商人は北前船の影響か、近江商人のように教育や社会福祉をはじめ地域のインフラ整備に力を注いできた時期があります。一軒の大きな地主が存在する地域と異なり、数十人の商人の広い人脈と財力と協業と知恵がこの地域を支えてきたものと思われます。
内蔵:文化庁が重要伝統的建造物群保存地区指定のポイントは増田町が幕末から変わっていない町割りや道路や敷地です。特徴的な『秋田・増田の内蔵』がメインではないのです。
増田町中心部に現存する商人の家は約50軒弱ですが、明治大正昭和初期と所有者が変わらずにいるお宅は10軒ほどです。所有者が変わっても内蔵を含む建物と敷地はそのまま残っています。間口が12~15mくらいで奥行き100~110mほどの短冊状の敷地が基準となっています。その敷地内には母屋の中に内蔵、さらに裏庭に外蔵がそれぞれ存在します。
祭り:増田町最大のイベントの「増田の花火」は秋田県内最古の花火大会として、現在も協賛者の方々のご協力で毎年続いています。全国的に有名な大曲の花火より4年古いので2018年現在95回を数えています。増田月山神社祭典奉納花火が起源ですので毎年9月14日15日両日にわたり行われておりましたが、現在は宵宮祭りの14日夜に約5000発の花火が上がります。翌15日神輿渡御行列も古式ゆかしいものです。その増田月山神社のお神輿は昔京都から北前舟で運ばれてきた記録が残っています。
冬に行われる「増田ぼんでん」は寛永20年(1643年)市場の神様である恵比寿堂建立し、旧正月20日に五十集衆(イサバシュウ)「魚商」たちが商売繁盛を祈願し麻糸ぼんでんを奉納したのが始まりといわれています。春の「さくらまつり」や秋の「りんごまつり」が行われる真人公園は増田の東に位置し、朝日の昇る真人山の麓です。「さくらまつり」期間中行われるメインイベントは「たらいこぎ競争」ですが、大正時代から続く息の長い祭りのひとつです。夏に行われている「たらいこぎ選手権」は30年ほどまえ「タライアスロン」としてその当時の若者がたらいこぎと自転車マラソンとはじめたのが元となっています。
秋の林檎収穫時期に「りんごまつり」が行われるのも真人公園です。映画「そよかぜ」のロケも増田で行われました。沼館(雄物川)出身の佐々木康監督で1945年製作された映画の挿入歌と主演の並木路子さんは増田に深い縁があります。りんごまつりの「りんごのうたコンクール」で審査員もされたことがあり、思いで深く今も歌い継がれています。
真人:町を東成瀬方面に抜けると間もなく、成瀬川にせり出した真人山があります。前九年の役で源頼義(みなもとのよりよし)にくみし安倍貞任(あべ のさだとう)を討った、のちの鎮守府将軍清原真人武則(ちんじゅふしょうぐん きよはらのまとうたけのり)がここに居城していたのでその名が起ったといわれます。
大正時代となりその当時日本の作庭家の第一人者の一人である長岡安平設計による真人公園が大正改元を記念し公園化されました。桜の名所として知られ県観光三十景、『日本さくらの会さくら名所100選』にも選定されています。園内には義経・弁慶にまつわる『三貫桜』など伝説の史跡もありますが、名物としては毎年お花見に行なわれるタライこぎ競漕があります。
昔、増田の商人は真人公園周辺に別荘を持っているお宅もあり、家族や友人知人客人などを誘って真人公園を散策や安らぎの場としていたと思われます。
交通:河川交通の時代を経て、増田は旧小安街道、旧手倉街道の合流拠点として物流や人材交流の陸路交通についても重要な役割をしてきたわけですが、大正時代から人力車も多く存在していたようです。その後、他に先駆けて増田乗合バス会社があったりしたようですが、十文字駅周辺は増田の人たちの所有地が多くありました。鉄道が下湯沢駅を過ぎ岩崎橋までの間に大カーブし増田に近づきますが、その線形は当時の増田の力を象徴しています。駅の西側には米倉庫、東側には木材土場と鉱山の鉱物置場があり、吉野鉱山からの索道が時折「ガラガラガラ、、」と音を立てて鉱物を運んでいたこともすこし記憶にあります。当時秋田県内でも珍しい十文字駅から増田町までの道はコンクリート舗装道路だったそうです。道幅も幕末から今の道幅が確保されていたようで、物流の拠点としての増田町が発展してきたことがわかるもののひとつです。また、増田町は古くから岩手県水沢市(現奥州市)との交流が密接であり、悲願の水沢線開通を目指し十文字町や東成瀬村と連携しながら尽力された時代も長かったようです。新横手市となってから行政間は疎遠となっていますが、増田町の姉妹都市として水沢市は大事なパートナーでした。
暮し:増田には昔『出張料理人』が多くおり、それぞれのお宅に出かけてお料理を出していたようです。魚屋や豆腐屋、蕎麦屋、餅屋など食材供給業者がいろいろ多く存在し、どの家も座敷の真ん中の柱を外すと大広間になるような構造なのです。そのお膳や漆器など食器類は温度や湿度が一定の内蔵2階に所蔵されていました。
暮らしの中に根付いていた信仰は月の神様『増田月山神社』、太陽の神様『神明神社』、曹洞宗『増田山満福寺』浄土真宗大谷派『東流山通覚寺』のほか大小さまざまなお堂や石が祭られています。
娯楽:増田の商人たちは多角的に多方面の商売をしていた関係もあり、かなり裕福な暮らしもできたはずですが総じて質素倹約を旨としていたようです。そのせいか自宅で人寄せが出来、大きな料亭などがなかったことです。勿論鉱山景気に沸いたこともあり、時代背景として遊郭など街各所に存在していたことが町割りの中にも垣間見ることができます。昭和に入ってからできた大きな映画館「昭和館」は木造の建築物でしたが、老朽化により取り壊され現在はその姿を見ることはできません。
それぞれ個人的には切手の収集家や写真や絵画の仲間、ジャズSPレコードの収集家、謡や能の集まり、俳句会、囲碁将棋の仲間など商人同士や他地域の人々も交えた趣味や文化の交流があったようです。
食 :もともと横手盆地は湿地帯ですので稲作に恵まれたことで、米は主力農産物でした。増田町は南西斜面を活用した果樹栽培も秋田県では中心的役割を担ってきました。無袋栽培の先進技術も全国に先駆けてここから始まっています。現在は米どころでありながら、そばうどん、ラーメン、焼きそばなど麺類も美味しく増田周辺には多くのお店があります。昔はつくり酒屋7軒、豆腐屋10軒ほど、魚屋10軒以上存在していました。ここ増田付近は海から遠く離れた雪の多い内陸ですが、日本海に面した本荘の港から2時間ほど離れた「魚尻線」ギリギリの内陸でした。冬の多い雪を大量に保存し9月ころまで使えるようにしていた「雪室」も増田町内には魚屋の数以上ありました。他に和菓子屋、パン製造会社や大きな味噌醸造会社もあり県内のみならず広範囲に供給していました。ここ増田には昔から豊かな食文化が静かに根付いていました。
人材:古くは江戸時代の日本画家加瀬谷東嶺、昭和の洋画家水戸敬之助、つり吉三平の漫画家矢口高雄、台湾大学の植物学者工藤祐瞬、映画監督石田民三、シドニー写真クラブ写真家石田喜兵衛、今も横浜港に停泊展示されている戦前の豪華客船・氷川丸船長石田忠吉など過去現在と各分野で活躍されている方がそのほかにも多数おります。商人の町でしたので、名もない人のつながりを非常に大事にしたおかげで小さな田舎町が繁栄できた元となっていると考えられています。ただ、今も昔も優秀な人材を育てれば、その地域から出て行ってしまう現状は変わりませんが、人の繋がりを大事にしていきたいものです
福祉:増田の朝市通り裏にある「感恩講」という木造洋館は昔の社会福祉事業団体の事務所です。増田の商人を中心に貧民救済事業として食料やお金を出し合い、生活の苦しい方々に配分支給していた組織です。佐竹の殿様が秋田の豪商那波氏に民間レベルでの貧民救済を命じ、那波氏親戚縁者を中心に広がり親戚のいる増田も早くからこの事業に取り組んだようです。
増田が他地域に比べ全体的に比較的豊かであったことを物語ることのひとつです。
結び:増田町は住宅区域の文化財の保護という難しいことをどのように繋いでいくかという問題も抱えていますが、今も残る何気ない懐かしい雰囲気の街に一度ならずも二度三度と遊びに来ていただければ幸いです。
以上
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(追記)
秋田「JOMON」をどう表現しガイドできるかの考察
一般社団法人増田町観光協会会長 千田孝八
そもそも来訪者から「縄文時代の縄文とは縄を何で作ったのですか?弥生時代から始まったといわれる稲作ですが、稲ワラがない時代の縄文時代に縄を作った材料は何を使ったのですか?」と問われたら、その答えは発掘されたものから推測するに「当時手に入りやすいシダを使ったようです。」から始まります。
現在、私たちが目にする文化財や遺跡はそこに存在している“モノ”でしかありません。ただし、それを作った人や人々の暮らしや息遣いをどう感じどう表現することができるのか、伝え方の工夫が必要だと思います。私たち人類の祖先がその時代にそこに存在し、現代でも同じように見える空の下で普通の暮らしを営んでいたわけです。これはまさに古代の普通の人たちの普通の暮らしの「あと」です。
ダーウィンの進化論においては、個々に"存在し続けるための努力"に努める生物の個体のうち、最も環境に適した形質をもつ個体が生存の機会を保障される、と表現されました。最近テレビCMなどでダーウィンのものであるとして「強い者が生き延びたのではない。変化に適応したものが生き延びたのだ。」という言葉が流布されるようになったが、これはダーウィンの言葉ではないとされています。しかし、お陰様で私たち特別優秀ではない環境順応した普通の人間が昔も今も生き伸び、生き続けています。
話は変わりますが、ヨーロッパ大陸は氷河期が長かったため、厚い岩盤質上層の表土層が薄く植物の種類が少ないといわれています。日本列島は氷河期の後、温暖で湿潤な条件が整っていったせいか腐葉土十分な表土層が厚く植物の種類が現在も大変多く存在しています。そのお陰ともいえる、水が豊富で自然水が綺麗なのは日本の特徴の一つです。世界でも現在、水道の水が飲用に耐えるのは15か国だけとのことです。(フィンランド、アイスランド、アイルランド、スロベニア、ドイツ、オーストリア、アラブ首長国連邦、ニュージーランド、南アフリカ、モザンビーク、レソト、ナミビアストックホルム(スウェーデン)、シドニー(オーストラリア)、日本の15か国。)日本は火山列島であったわけですが、太古の昔日本列島は海岸線まで森林が存在していたようです。植物が多いと当然昆虫や動物も多く生息することとなります。狩猟を中心としていた時代に大陸のような移動型生活ではなく定住型生活を営むことができたことは水に恵まれ、食物を確保でき、安眠できる場所があったといえます。日本の縄文人もそのような人間が安心して豊かな自然環境条件の中で暮らしていたと想像できます。現代社会のように選挙公約にしなくとも、古代かなりの長い期間「安心で安全な暮らし」を縄文人が営んでいたと思われます。
森の中での暮らしから生まれた自然と同化した日本に根付いた森林思想と大陸の他国のように自然と対峙してきた砂漠思想の違いが、縄文文化の一部にでも触れることで、原始の暮らしを垣間見ることにより理解できるような気がします。
ここにはそれを感じれる時間と空間を超えたものが存在しているように思えます。
ただ、世界遺産イコール観光とはいかないので、どう観光活用できるのか企画する必要があります。北海道北東北に点在する各地域を線で結び関連付け、そのうえで一帯の地域として面にどう表現するか、行政間地域間の垣根をどうクリアしていくのかが今後問われていく問題でしょう。文化財保存や遺跡保存のみに注視し、観光活用をブームに終わらさせず継続性のあるガイドやご案内を続けていこうとするのであれば、ここの地域にこだわり過ぎないよう他地域との連携の仕方や、後継者が入ってきやすい条件を整える必要が出てきます。しかし、この誘客集客はガイドの仕事ではありません。観光活用の誘客集客は文化財や遺跡保存のみに近視眼的にならず大局観を持った考え方が保存する行政側に必要となります。ちなみに青森県の世界遺産担当は13名のようですが、北海道岩手県秋田県はどうでしょう。行政担当部署を調べてみますと、北海道は環境生活部 文化局文化振興課 縄文世界遺産推進室が担当。青森県は企画制作部 世界文化遺産登録推進室が担当(13人)。秋田県は教育庁 生涯学習課文化財保護室 埋蔵文化財・世界遺産登録推進班が担当。岩手県は文化スポーツ部 文化振興課 世界遺産担当が担当。この温度差をどう解決し対応していくのかがガイド以前の問題です。世界文化遺産という世界の普遍的価値は都道府県や市町村の行政間連携というよりも世界文化遺産という同じ運命共同体としての取組みが必要となるでしょう。
勿論ガイドは大事ですが、観光は誘客方法、集客方法、接客方法の連携必要です。実はお客様が来訪されてからガイドの仕事が始まるのに、なぜか何処も先にガイド整備しようとしているのは順序が逆です。今回の広範囲な世界遺産の場合、同じボード上でなければ単なる地域間温度差を生じることになります。行政間のすり合わせや共通パンフレットなどの一枚岩戦略をとれるかがカギとなるでしょう。
ガイドという仕事も後継者育成も含め継続した行動をとるために、当然社会的・経済的バックボーンを考えなければなりません。そこがボランティアガイドの限界と問題点ともいえます。解決策としてはガイドはオフィシャルガイドは勿論、ボランティアガイドだとしても有償とするべきです。それが世界の一般的動向です。海外からの来訪者は当然有償だと思っているひとが大半です。だからこそ、質を要求されます。
以上
秋田県鹿角市 大湯ストーンサークル館 2021.11.13
一般社団法人増田町観光協会会長 千田孝八
1) ガイドの役割について
文化財ガイドに軸足を置くのか、観光ガイドとしての立場に重点を置くのかによりガイド内容は微妙に違ってきます。ここでは観光ガイドの立場での役割について考察してみたいと思います。
観光ボランティアガイドとはポイントとして
『自発性』 『継続性』 『個人性』 『仲間同士の良好な人間関係』
観光ガイド社の社員ではないので、本職ガイドと棲み分けが必要な場合もあります。
ボランティアガイドの質の保証は行政のバックアップによることとなります。
『認定』 『認証』 『安心』
行政との関係では観光行政の一環一翼を担っている自負がある反面、トラブルなどがある場合「してやっている。」というようなマイナス面も出てくることもあります
ボランティア=無料? 無償?ということではなく、ガイドシステムを整備する必要な時代になってきていると思います。
『正当な対価』 『組織統率』 『常に学習』
誰のための何のためのガイドなのかを考えてみましょう。
ガイドとして軸足をどこに置くのか、何を伝えるのか、単なる知識の押し付けではない方法を考えて話をしてみましょう。お客様に耳を傾けてもらえる話し方を考え、方言などもうまく織り交ぜて話すのも面白いと思います。来訪されたお客様の興味や関心のありかを見抜く訓練も必要でしょう。
2) ガイドの際、心がけていること
事前にお客様をリサーチしておき、ガイドを始めたらお客様のことを根掘り葉掘り聞かないようにしています。話を聞いてもらえるような話し方と話題に気を付けています。いろいろ話していてもお客様同士で雑談をされてしまってはガイドしている意味はなくなります。人に物事を教えるような話術になっていないか気を付け、知識を振り回すのではガイドにならないと思っています。古いものをただ古く表現するのではなく、時間と空間を巡るストーリーとロマンを感じていただけるような表現ができたらいいなと考えています。
「また、行ってみよう。」「また、あの人に会って話をしたい。」「あの景色をまた見たい。」と来訪された方が思っていただけるようなガイドができたら最高ですよね。
3) ガイドに求められること
・来訪されたお客様との礼儀ある距離感が必要です。
・来訪された方が政治家や役所関係者か、文化財などの専門家か、メディア関係者か、小学生中学生高校生かなど、また来訪地域や年代層などにより話題のアプローチの仕方は失礼がないように工夫する必要があると思います。
・歴史の説明ではなく、昔の話を興味をもって聞いてもらう方法として現代との対比を
どう表現するのか工夫が必要です。
・正確さは勿論ですがガイド説明でお客様に興味をもってもらう方法は次の通りです。
① 地元愛
② 自己愛
③ 信じること
④ 調べること
⑤ 考えること
⑥ 遊びの精神
⑦ 方言を織り交ぜること
⑧ 自分が他地域を観光したとき何を期待し要望していたのか思い出すこと
⑨ 学芸員ではないので軸足を観光視点に置くよう心掛けること
・ガイドとしてのプラスαは個人個人の個性をプラスした、自分なりのガイド方法を
見つけ身に着けることではないかと思います。
※私には、世界遺産というハードルの高さはどれほどのものか実感はありません。
つまり、世界遺産保存と観光のギャップは存在します。立ち入ることができないところ
や触れることができないものがありながら、興味や魅力を感じて戴くにはどのように
したらよいのか、考え企画する必要があります。これは現場を任されるガイドと企画
管理をする役所との協力した知恵の出し方になると思います。
特に今回は行政区域を飛び越えて他地域との連携をどうとっていくのかが生命線となる
かもしれません。文化財活用の観光広域連携の取り方は過去に例がないと思います。
ただ、あくまでも観光ガイドは接客業務の一助しかできませんので、観光誘客や観光
集客業務はガイドの仕事には入りません。関係連携がうまく取れベースができることで
ガイドは充実した仕事をこなすことができ、皆様のお役に立てるものと思われます。
4) 国重要伝統的建造物群保存地区への取り組みについて
平成25年に国重要伝統的建造物群保存地区選定となった増田ですが、実は平成17年の市町村合併以前から増田町商工会を中心に新規進出した稲川町の稲庭うどん店佐藤養助商店増田店がきっかけで「ますだクラッシックロード」という事業を始めました。中心街区の活性化を新規進出店舗を盛り立てながら、それまで広く一般に知られていなかった「増田の内蔵」を活用できないかということで始まりました。市町村合併を経て後、内蔵所有者のご協力もあり「増田蔵の日」というイベントを10年ほど続けてきました。
秋田県内では40年以上前の初期から指定になっていた「角館」はみちのくの小京都として全国的観光地の一つになっておりました。横手市では旧横手市内での重伝建指定も模索したようですが、実を結ばず増田町に白羽の矢が向けられ今日に至っております。
中心街区の一部の建物は重伝建指定以前にJR様などの助成で補修修景されたものもあります。現在は主要建造物の修理修景工事はかなり進んでおりますが、補助金のみでできるものではなく自己負担金も補助同額以上かかることから、少し停滞気味です。何しろ冬場の積雪が2mほどとなるため木造建築物の維持管理は各所有者にとって大きな負担となっております。
増田町の中町・七日町・本町・上町には約50軒ほどの古いお宅が軒を連ねており、その中の19軒が公開家屋としてご案内しております。ただ、増田町の古いお宅で旧来からそこに300年から400年暮らしていますというお宅は2割程度しかおりません。ここ数十年の間に建物は古いまま所有者が変わり別のご商売をされているところが8割です。
増田が国重要伝統的建造物群保存地区選定になった要件は町割りが江戸時代から変わっていないところです。つまり、昔から区画整理されていないわけです。家の中に内蔵があることは指定要件に入っていません。
そこが、私たち増田の観光を考えるときに文化財指定イコール観光ではないと横手市に訴えた重要な部分です。どうしても今の行政はインフラにつぎ込んだ資金の費用対効果を要求するとき来場者数のチェックをしたり、アンケート調査をしたがります。これは何の関連性のないことを無理やり結び付けているからです。文化財の保護や文化施設は設置や維持管理にどうしても費用が掛かります。しかし、観光は一つの手段であり結果ではありません。観光を通じ飲食店やお土産屋さん、宿泊施設、さらに新産業や製造業がご商売につながっていくことへの間接的お手伝いにすぎないはずです。
現在一般社団法人である増田町観光協会では少ない予算で高効果を得ようと工夫しながら、誘客・集客・接客対策を講じています。モデルはミスりんごコンテスト応募者の方々に協力してもらい、写真撮影編集や動画撮影編集は勿論、パンフレットやポスターの企画編集も自前で行い経費節減としております。
増田のことを90歳を超えた長老と相談の上記録したことを次ページから記載しておきます。これは後にパンフレット細見読本に掲載した「増田のこと見たり聞いたり」です。
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【増田町のこと見たり聞いたり】
調 査 記 述 責 任 者:
一般社団法人増田町観光協会会長 千田孝八
最近増田を訪れる方々から「なぜこんな田舎にこのような町ができたのでしょう」と問われることが良くあります。実は増田町史にも増田郷土史にも増田町の中心街区のことはあまり表現された文献はありません。私たちが明治生まれの年寄りたちから聞かされたこと、また私たちが見てきたもの、調べたものなどを思いつくキーワードごとに述べてみたいと思います。
当時の増田の繁栄した時代は、基本的に古代中世史まで遡るものではなく、明治大正昭和の近代史です。
まず増田の人たちの気質の一面が記載された、次の『』の中の引用文書は(大正3年6月1日実業の増田第20号)を一部抜粋編集したものです。増田人の質実剛健な暮らしや地域創り、その生活の仕方、姿勢が端的に表現された短文と言えます。
『増田の人は主人と雇用人との間、一見見分けがつかないことがあり、初対面の人が主人を捉えて主人への取次を頼むことが往々にしてあった。これは古来増田の人の服装が、上下を通じて筒袖(つつそで)・股引(ももひき)を纏(まと)い、雇用人と共に労働するのが普通であったからである。これは成瀬・皆瀬両流域(俗に増田山内と呼ばれていた)の農民や樵夫(きこり)と仲間として付き合い、久しい間にこれに同化してしまった、とも云われているが、要するに商人達と雖も(いえども)ひたすら質素に節倹を旨として生活してきたことに拠る。またその住居は、表向きは粗末な茅屋で、従って家並みは商人町と云われ乍ら、そう立派でもなければ壮大でもない。しかし家の中に入れば内蔵が鎮座し、さらに裏に廻れば漆喰塗りの立派な土蔵が建ち並び、その意外さに世人は「増田の蛍町」と称した。尻が光ると云う意である。この美風は、増田の社会の貧富の差を甚だしくせず、商人の数が当時雄勝全郡の数に匹敵しながら特に卓出せる地主などは存在しなかった。又、町内全域においても下層の者でも生計難を訴えることがなく、その多くが中産以下の相応の生計をしていたことにも現れている。』
増田人の特色としてこの新聞記事『増田人の風俗の特色』は、増田人の気質を端的に描写しています。商人の日常の生活は少なくとも明治の末ごろまではこのような状態であったと思われます。しかし、煙草の国営化、生糸の暴落による作離れなど、この地特有の産業も衰退に向かい、時代の変遷とともにこの美風も次第に色褪せ、一般の商人の態に変わってくるのです。
また、貧富の差が甚だしくなく、下層の者の生活も相応の生計であったとするのは、当時極貧の生計に喘いでいた者の少なくなかった農山村の実態からすれば、増田はまだまだ恵まれた方であったことを述べていることのようです。
地理:東北の秋田県南部の西栗駒山麓に位置し、成瀬川が皆瀬川に合流するところが増田
です。旧街道では小安街道と手倉街道の交わるとこですが宿場町としてではなく、物流の拠点として発展し商人の町が形成されたのが増田町です。
地形:増田町は標高100m前後であり、横手盆地南端東側に位置します。
真人山から広がる扇状地は肥沃で水はけが良いため、安定した地盤とおいしい地下水により縄文時代から人が住み着いていたようです。現在その痕跡を垣間見ることができるのは吉野地区の『梨の木塚遺跡』に竪穴式住居が再現されています
気象:夏は盆地独特のフェーン現象により非常に暑く、冬は2mほどの大変多い積雪があります。雪は増田に10件以上存在した魚屋が雪室に運んで行き、9月ころまで氷の代わりに使用していたそうです。自然のものを活用したという点で、今で言う「エコ社会」のひとつです。
土地:農地として好適地の横手盆地は陸地盆地としては日本一の広さを誇ります。
昔から米作中心の地域ですが、増田が栄えたころは特殊農産物といえる葉タバコや養蚕がこの流域では行われていました。その仲買人は増田の商人です。今は傾斜地を活用した果樹栽培が増田町亀田から北は平鹿町醍醐や横手市大屋、南は稲川町大倉のあたりまで広がっています。りんごの無袋栽培はこの地区から始まり現在は全国的になっています。樹上で完熟させるために大変糖度の高いりんごが作られています。
政治:一国一城令により廃城となった土肥城跡は現在、増田小学校となっています。
「増田」が国史に初めて現れたのは天平宝字(てんぴょうほうじ)3年(759)9月で、ここに出羽の郡衛(ぐんが)が置かれたと記載されています。この平鹿郡名の発祥地は増田町の小字名「平鹿」で、この地名の由来は成瀬川の河成段丘線崖にあったといわれています。平成17年に市町村合併しましたが、増田町は平鹿郡の筆頭町村でした。増田町本町を中心に役場、警察署、消防署、法務局、郵便局、営林署、更に県内一の葉たばこ耕作面積を管理する専売公社などの諸官庁の所在することによって、周辺地域の中心でした。
教育:増田小学校は秋田県内で秋田市明徳小学校の次に出来ています。現在の増田高校は大正の増田町立実科高等女学校を前身としています。また、旧西成瀬小学校では標準語教育を先駆けて行っていたことでも知られています。「文教の町増田」と言われた時代があるように教育熱心な地域でした。古くから東京の大学や学校に子弟を学ばせることもしていたようです。東京大学出や東北大学出のお医者さんやちょっとモダンな慶応や早稲田出身のお店のご主人がおりました。剣道関係者は山形県の米沢の学校だったり、商人の子弟の中には秋田商業古老のOBもおられました。秋田師範学校(現秋田大学)を卒業し、増田は教育関係の仕事に従事されていた方が多かったこともその成果かもしれません。また変わったところでは、北海道札幌市月寒にある財団法人月寒学院・学校法人八紘学院設立には増田の千田彦五郎と佐藤清十郎が私財をつぎ込み農業後継者育成の学校を作りました。もちろん今現在も存在する学校なのです。その理事長は稲川町出身の栗林氏でした。
文化:増田は産業や文化の面で北前舟の影響を受けた最も内陸のひとつです。内蔵の意匠などに関西風というか、上方の影響を受けたものが多く存在します。また、財力と人脈によりそれぞれの分野の専門家を招聘し、その当時日本の作庭家の第一人者の一人である長岡安平設計による真人公園は春の桜を観、秋には紅葉を楽しみ、その真人山を借景にした庭を造るなどして客人をもてなしていたといわれています。絵画、写真はもちろん、俳句や短歌、謡、能などを嗜む方多くおられたとのことです。
北前舟の影響を受けた産業面では、昆布加工を行う昆布店が今も増田に存在しています。
産業:現在の北都銀行の前身羽後銀行は増田が本店、さらにその前身たる増田銀行が明治28年(1895)5月3日「株式合社増田銀行」として全国的にも早い段階で増田の商人達により創設されました。それぞれの商人達による金貸業を貸すほうも借りるほうも「見える化」したことにより、さらに地域の経済活動に拍車がかかったと思われます。増田水力電気会社が真人発電所によって県南でいちばん早くこの町に電灯をともしたのです。その後、南は山形県境から北は阿仁町の辺りまで電気を供給する電気会社に拡大しました。増田町の中心街区の中町・七日町・本町には50軒ほどの商人がいましたが、お店の商売以外の収入も多かったものと考えられます。鉱山、山林経営、稲作、葉タバコ、養蚕、金融、証券、不動産と、増田が他地域と異なる発展を遂げることができたのは、そこに住む商人同士がライバルでありパートナーであったものと思われます。1軒の家だけが繁栄するのではなく、異業種交流や共同協業、法人経営とマルチタスクに行われ、文字どおり産業・経済・文化の中心地であったと考えられます。質素倹約を実践しながら暮らしてきた増田の商人は北前船の影響か、近江商人のように教育や社会福祉をはじめ地域のインフラ整備に力を注いできた時期があります。一軒の大きな地主が存在する地域と異なり、数十人の商人の広い人脈と財力と協業と知恵がこの地域を支えてきたものと思われます。
内蔵:文化庁が重要伝統的建造物群保存地区指定のポイントは増田町が幕末から変わっていない町割りや道路や敷地です。特徴的な『秋田・増田の内蔵』がメインではないのです。
増田町中心部に現存する商人の家は約50軒弱ですが、明治大正昭和初期と所有者が変わらずにいるお宅は10軒ほどです。所有者が変わっても内蔵を含む建物と敷地はそのまま残っています。間口が12~15mくらいで奥行き100~110mほどの短冊状の敷地が基準となっています。その敷地内には母屋の中に内蔵、さらに裏庭に外蔵がそれぞれ存在します。
祭り:増田町最大のイベントの「増田の花火」は秋田県内最古の花火大会として、現在も協賛者の方々のご協力で毎年続いています。全国的に有名な大曲の花火より4年古いので2018年現在95回を数えています。増田月山神社祭典奉納花火が起源ですので毎年9月14日15日両日にわたり行われておりましたが、現在は宵宮祭りの14日夜に約5000発の花火が上がります。翌15日神輿渡御行列も古式ゆかしいものです。その増田月山神社のお神輿は昔京都から北前舟で運ばれてきた記録が残っています。
冬に行われる「増田ぼんでん」は寛永20年(1643年)市場の神様である恵比寿堂建立し、旧正月20日に五十集衆(イサバシュウ)「魚商」たちが商売繁盛を祈願し麻糸ぼんでんを奉納したのが始まりといわれています。春の「さくらまつり」や秋の「りんごまつり」が行われる真人公園は増田の東に位置し、朝日の昇る真人山の麓です。「さくらまつり」期間中行われるメインイベントは「たらいこぎ競争」ですが、大正時代から続く息の長い祭りのひとつです。夏に行われている「たらいこぎ選手権」は30年ほどまえ「タライアスロン」としてその当時の若者がたらいこぎと自転車マラソンとはじめたのが元となっています。
秋の林檎収穫時期に「りんごまつり」が行われるのも真人公園です。映画「そよかぜ」のロケも増田で行われました。沼館(雄物川)出身の佐々木康監督で1945年製作された映画の挿入歌と主演の並木路子さんは増田に深い縁があります。りんごまつりの「りんごのうたコンクール」で審査員もされたことがあり、思いで深く今も歌い継がれています。
真人:町を東成瀬方面に抜けると間もなく、成瀬川にせり出した真人山があります。前九年の役で源頼義(みなもとのよりよし)にくみし安倍貞任(あべ のさだとう)を討った、のちの鎮守府将軍清原真人武則(ちんじゅふしょうぐん きよはらのまとうたけのり)がここに居城していたのでその名が起ったといわれます。
大正時代となりその当時日本の作庭家の第一人者の一人である長岡安平設計による真人公園が大正改元を記念し公園化されました。桜の名所として知られ県観光三十景、『日本さくらの会さくら名所100選』にも選定されています。園内には義経・弁慶にまつわる『三貫桜』など伝説の史跡もありますが、名物としては毎年お花見に行なわれるタライこぎ競漕があります。
昔、増田の商人は真人公園周辺に別荘を持っているお宅もあり、家族や友人知人客人などを誘って真人公園を散策や安らぎの場としていたと思われます。
交通:河川交通の時代を経て、増田は旧小安街道、旧手倉街道の合流拠点として物流や人材交流の陸路交通についても重要な役割をしてきたわけですが、大正時代から人力車も多く存在していたようです。その後、他に先駆けて増田乗合バス会社があったりしたようですが、十文字駅周辺は増田の人たちの所有地が多くありました。鉄道が下湯沢駅を過ぎ岩崎橋までの間に大カーブし増田に近づきますが、その線形は当時の増田の力を象徴しています。駅の西側には米倉庫、東側には木材土場と鉱山の鉱物置場があり、吉野鉱山からの索道が時折「ガラガラガラ、、」と音を立てて鉱物を運んでいたこともすこし記憶にあります。当時秋田県内でも珍しい十文字駅から増田町までの道はコンクリート舗装道路だったそうです。道幅も幕末から今の道幅が確保されていたようで、物流の拠点としての増田町が発展してきたことがわかるもののひとつです。また、増田町は古くから岩手県水沢市(現奥州市)との交流が密接であり、悲願の水沢線開通を目指し十文字町や東成瀬村と連携しながら尽力された時代も長かったようです。新横手市となってから行政間は疎遠となっていますが、増田町の姉妹都市として水沢市は大事なパートナーでした。
暮し:増田には昔『出張料理人』が多くおり、それぞれのお宅に出かけてお料理を出していたようです。魚屋や豆腐屋、蕎麦屋、餅屋など食材供給業者がいろいろ多く存在し、どの家も座敷の真ん中の柱を外すと大広間になるような構造なのです。そのお膳や漆器など食器類は温度や湿度が一定の内蔵2階に所蔵されていました。
暮らしの中に根付いていた信仰は月の神様『増田月山神社』、太陽の神様『神明神社』、曹洞宗『増田山満福寺』浄土真宗大谷派『東流山通覚寺』のほか大小さまざまなお堂や石が祭られています。
娯楽:増田の商人たちは多角的に多方面の商売をしていた関係もあり、かなり裕福な暮らしもできたはずですが総じて質素倹約を旨としていたようです。そのせいか自宅で人寄せが出来、大きな料亭などがなかったことです。勿論鉱山景気に沸いたこともあり、時代背景として遊郭など街各所に存在していたことが町割りの中にも垣間見ることができます。昭和に入ってからできた大きな映画館「昭和館」は木造の建築物でしたが、老朽化により取り壊され現在はその姿を見ることはできません。
それぞれ個人的には切手の収集家や写真や絵画の仲間、ジャズSPレコードの収集家、謡や能の集まり、俳句会、囲碁将棋の仲間など商人同士や他地域の人々も交えた趣味や文化の交流があったようです。
食 :もともと横手盆地は湿地帯ですので稲作に恵まれたことで、米は主力農産物でした。増田町は南西斜面を活用した果樹栽培も秋田県では中心的役割を担ってきました。無袋栽培の先進技術も全国に先駆けてここから始まっています。現在は米どころでありながら、そばうどん、ラーメン、焼きそばなど麺類も美味しく増田周辺には多くのお店があります。昔はつくり酒屋7軒、豆腐屋10軒ほど、魚屋10軒以上存在していました。ここ増田付近は海から遠く離れた雪の多い内陸ですが、日本海に面した本荘の港から2時間ほど離れた「魚尻線」ギリギリの内陸でした。冬の多い雪を大量に保存し9月ころまで使えるようにしていた「雪室」も増田町内には魚屋の数以上ありました。他に和菓子屋、パン製造会社や大きな味噌醸造会社もあり県内のみならず広範囲に供給していました。ここ増田には昔から豊かな食文化が静かに根付いていました。
人材:古くは江戸時代の日本画家加瀬谷東嶺、昭和の洋画家水戸敬之助、つり吉三平の漫画家矢口高雄、台湾大学の植物学者工藤祐瞬、映画監督石田民三、シドニー写真クラブ写真家石田喜兵衛、今も横浜港に停泊展示されている戦前の豪華客船・氷川丸船長石田忠吉など過去現在と各分野で活躍されている方がそのほかにも多数おります。商人の町でしたので、名もない人のつながりを非常に大事にしたおかげで小さな田舎町が繁栄できた元となっていると考えられています。ただ、今も昔も優秀な人材を育てれば、その地域から出て行ってしまう現状は変わりませんが、人の繋がりを大事にしていきたいものです
福祉:増田の朝市通り裏にある「感恩講」という木造洋館は昔の社会福祉事業団体の事務所です。増田の商人を中心に貧民救済事業として食料やお金を出し合い、生活の苦しい方々に配分支給していた組織です。佐竹の殿様が秋田の豪商那波氏に民間レベルでの貧民救済を命じ、那波氏親戚縁者を中心に広がり親戚のいる増田も早くからこの事業に取り組んだようです。
増田が他地域に比べ全体的に比較的豊かであったことを物語ることのひとつです。
結び:増田町は住宅区域の文化財の保護という難しいことをどのように繋いでいくかという問題も抱えていますが、今も残る何気ない懐かしい雰囲気の街に一度ならずも二度三度と遊びに来ていただければ幸いです。
以上
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(追記)
秋田「JOMON」をどう表現しガイドできるかの考察
一般社団法人増田町観光協会会長 千田孝八
そもそも来訪者から「縄文時代の縄文とは縄を何で作ったのですか?弥生時代から始まったといわれる稲作ですが、稲ワラがない時代の縄文時代に縄を作った材料は何を使ったのですか?」と問われたら、その答えは発掘されたものから推測するに「当時手に入りやすいシダを使ったようです。」から始まります。
現在、私たちが目にする文化財や遺跡はそこに存在している“モノ”でしかありません。ただし、それを作った人や人々の暮らしや息遣いをどう感じどう表現することができるのか、伝え方の工夫が必要だと思います。私たち人類の祖先がその時代にそこに存在し、現代でも同じように見える空の下で普通の暮らしを営んでいたわけです。これはまさに古代の普通の人たちの普通の暮らしの「あと」です。
ダーウィンの進化論においては、個々に"存在し続けるための努力"に努める生物の個体のうち、最も環境に適した形質をもつ個体が生存の機会を保障される、と表現されました。最近テレビCMなどでダーウィンのものであるとして「強い者が生き延びたのではない。変化に適応したものが生き延びたのだ。」という言葉が流布されるようになったが、これはダーウィンの言葉ではないとされています。しかし、お陰様で私たち特別優秀ではない環境順応した普通の人間が昔も今も生き伸び、生き続けています。
話は変わりますが、ヨーロッパ大陸は氷河期が長かったため、厚い岩盤質上層の表土層が薄く植物の種類が少ないといわれています。日本列島は氷河期の後、温暖で湿潤な条件が整っていったせいか腐葉土十分な表土層が厚く植物の種類が現在も大変多く存在しています。そのお陰ともいえる、水が豊富で自然水が綺麗なのは日本の特徴の一つです。世界でも現在、水道の水が飲用に耐えるのは15か国だけとのことです。(フィンランド、アイスランド、アイルランド、スロベニア、ドイツ、オーストリア、アラブ首長国連邦、ニュージーランド、南アフリカ、モザンビーク、レソト、ナミビアストックホルム(スウェーデン)、シドニー(オーストラリア)、日本の15か国。)日本は火山列島であったわけですが、太古の昔日本列島は海岸線まで森林が存在していたようです。植物が多いと当然昆虫や動物も多く生息することとなります。狩猟を中心としていた時代に大陸のような移動型生活ではなく定住型生活を営むことができたことは水に恵まれ、食物を確保でき、安眠できる場所があったといえます。日本の縄文人もそのような人間が安心して豊かな自然環境条件の中で暮らしていたと想像できます。現代社会のように選挙公約にしなくとも、古代かなりの長い期間「安心で安全な暮らし」を縄文人が営んでいたと思われます。
森の中での暮らしから生まれた自然と同化した日本に根付いた森林思想と大陸の他国のように自然と対峙してきた砂漠思想の違いが、縄文文化の一部にでも触れることで、原始の暮らしを垣間見ることにより理解できるような気がします。
ここにはそれを感じれる時間と空間を超えたものが存在しているように思えます。
ただ、世界遺産イコール観光とはいかないので、どう観光活用できるのか企画する必要があります。北海道北東北に点在する各地域を線で結び関連付け、そのうえで一帯の地域として面にどう表現するか、行政間地域間の垣根をどうクリアしていくのかが今後問われていく問題でしょう。文化財保存や遺跡保存のみに注視し、観光活用をブームに終わらさせず継続性のあるガイドやご案内を続けていこうとするのであれば、ここの地域にこだわり過ぎないよう他地域との連携の仕方や、後継者が入ってきやすい条件を整える必要が出てきます。しかし、この誘客集客はガイドの仕事ではありません。観光活用の誘客集客は文化財や遺跡保存のみに近視眼的にならず大局観を持った考え方が保存する行政側に必要となります。ちなみに青森県の世界遺産担当は13名のようですが、北海道岩手県秋田県はどうでしょう。行政担当部署を調べてみますと、北海道は環境生活部 文化局文化振興課 縄文世界遺産推進室が担当。青森県は企画制作部 世界文化遺産登録推進室が担当(13人)。秋田県は教育庁 生涯学習課文化財保護室 埋蔵文化財・世界遺産登録推進班が担当。岩手県は文化スポーツ部 文化振興課 世界遺産担当が担当。この温度差をどう解決し対応していくのかがガイド以前の問題です。世界文化遺産という世界の普遍的価値は都道府県や市町村の行政間連携というよりも世界文化遺産という同じ運命共同体としての取組みが必要となるでしょう。
勿論ガイドは大事ですが、観光は誘客方法、集客方法、接客方法の連携必要です。実はお客様が来訪されてからガイドの仕事が始まるのに、なぜか何処も先にガイド整備しようとしているのは順序が逆です。今回の広範囲な世界遺産の場合、同じボード上でなければ単なる地域間温度差を生じることになります。行政間のすり合わせや共通パンフレットなどの一枚岩戦略をとれるかがカギとなるでしょう。
ガイドという仕事も後継者育成も含め継続した行動をとるために、当然社会的・経済的バックボーンを考えなければなりません。そこがボランティアガイドの限界と問題点ともいえます。解決策としてはガイドはオフィシャルガイドは勿論、ボランティアガイドだとしても有償とするべきです。それが世界の一般的動向です。海外からの来訪者は当然有償だと思っているひとが大半です。だからこそ、質を要求されます。
以上
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